2015年9月28日から放送が開始されるNHK連続テレビ小説「あさが来た」。
その主人公でもありヒロインでもある今井あさ(演:波瑠)にはモデルとなった人物がいました。
日本初の女子大学創立に尽力した女性、広岡浅子です。
今回は、「あさが来た」の今井あさのモデルとなった広岡浅子について、経歴と画像をまとめました。
NHK連続テレビ小説「あさが来た」
「あさが来た」とは?
「あさが来た」とは、2015年9月28日から放送されるNHK連続テレビ小説。
主人公ヒロインの今井あさは日本女子大学設立に尽力した女性・広岡浅子をモデルにした人物で、ドラマ内でも「女子教育の発展は社会の発展につながる」という考えから、日本初の女子大学の設立に向けて奮闘する姿が描かれます。
「あさが来た」あらすじ
この物語のヒロインの名は、”あさ”。
幕末、京都の豪商の次女に生まれたあさは、相撲が大好きなおてんば娘。
琴や裁縫などの習い事に熱心な姉、はつは、あさとは好対照。
あさは大阪有数の両替屋の次男・新次郎と結婚することが親同士の約束で決まっていました。
しかし、物心つく頃には「お嫁なんかいかへん」と猛反発。
そんなあさは、ひょんなきっかけでその許婚、新次郎のひょうひょうとした魅力に引き込まれ、恋に目覚めます。
心ときめかせ嫁いだものの、明治に入り、時代に合わなくなった両替屋の経営は火の車。
ボンボンの夫、新次郎は「金儲けは性に合わへん」と三味線など風雅に興じるばかり。
いよいよ倒産かという時、新次郎が知り合いの商人から持ちかけられた炭鉱経営の話を聞くあさ。
石炭に新たな可能性を感じたあさの心に火がつきます。
単身、九州に向かったあさを待ち受けていたのは、炭鉱の男たち。
自分たちの知らぬ間に炭鉱の経営者が変わったことに怒る男たちに、あさは立ち向かいます。
一方、姉のはつは、大阪で一番歴史のある両替屋に嫁ぎます。しかし、両替屋と言いう時代遅れの稼業にこだわり続けたため、明治維新の荒波にのまれ、倒産してしまいます。
夜逃げ同然で姿を消してしまった姉のはつとようやく巡り会えたあさと梨江。
実家からの援助を拒むはつを、あさは説得します。
そして、姉夫婦は新しい場所で再出発していきます。
実業家として奮闘するあさは、男社会ゆえなかなか認められず、苦労の連続です。
そんな中、大阪の発展に尽力している五代友厚と親交を深めます。
「新しい事業を始めたい人を支援する存在であれ!」との言葉を託されたあさは、銀行経営を引き受け、多くの人の志を支援していきます。
また、日本で初めての女子行員を育成していきます。
「妻への応援」に徹していた夫・新次郎も「働く妻の背中」を見続け、お金儲けとは違う「仕事の意義」を感じ、動きはじめます。
時は流れ、一人娘も嫁ぎ、あさと新次郎が最後に引き受けた仕事は「女子教育の発展は社会の発展につながる」との考えから、日本最初の女子大学校の設立でした。
主人公・今井あさを演じるのは女優の波瑠
「あさが来た」で主人公ヒロイン・今井あさを演じるのは、映画にドラマに引っ張りだこの女優・波瑠!
2015年11月には、映画「流れ星が消えないうちに」で主演を務めることも分かっています。
周りから「サバサバしている」、「男前」と言われることが多く、「あさが来た」の主人公・今井あさの役柄にもピッタリな性格な気もしますね。
その一方でいたずら心旺盛・純粋無垢なところもあり、(親しい間柄であれば)構ってくれないときには「チュー」をしてくるときもあるとか。
夜10時を過ぎると眠くなってくるらしく、急に子供っぽい一面も見られるようになるなど、波瑠のギャップの差にも驚かされます。
波瑠が演じる今井あさ、一体どんな人物像になるのでしょうか。
今から楽しみなところですね(`・ω・´)
波瑠が好きな人は、波瑠の熱愛彼氏と高校は?美人でかわいい私服画像も!【あさが来たヒロイン】もご覧ください。
広岡浅子とは?
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さて、それでは「あさが来た」主人公の今井あさのモデルとなった女性・広岡浅子自身は、一体どんな人物だったのでしょうか。
広岡浅子プロフィール
出典 www.jiji.com
読み:ひろおかあさこ
生年月日:1849年10月18日
出身:山城国京都(現・京都府京都市)
職業:日本の実業家、教育者、社会運動家
広岡浅子は何をした?
豪商の次女として京都の誕生した広岡浅子は、大阪の豪商・加島屋に嫁ぎました。
広岡浅子は夫の広岡信五郎に代わり、傾きかけていた加島屋の立て直しに尽力。
持ち前の懐の大きさから、筑前潤野(うれしの)炭鉱を買収し、その経営に参画するにまで至りました。
その後、複数の創業にも参画したという、女性を代表する実業者でした。
そして広岡浅子を語るには忘れてはいけない偉業があります。
それこそが、「日本最初の女子大学設立」に尽力したということ。
広岡浅子の力がなければ、今の”日本女子大学”はおろか、日本に女子大学という概念は存在していなかったかもしれません。
広岡浅子の経歴
1849年 誕生
浅子は「女に教育は不要」という商家の慣習から、一切の読書を禁じられ育てられました。
1867年 結婚
大阪の豪商、加島屋当主の次男・広岡信五郎と結婚。
浅子が2歳の頃からの許婚で、この結婚は昔から決められた結婚だったそうです。
1870年 実業界に身を投じる
経営の傾いた加島屋を立て直すべく、浅子は立て直しに奔走します。
これをきっかけに、浅子は実業界に身を投じることになりました。
1884年 炭鉱事業へ参画
1888年 加島銀行を設立
1902年 大同生命創業に参画
1896年 梅花女学校の校長・成瀬仁蔵より、著書『女子教育論』を渡される
浅子は成瀬の「女子高等教育機関設立」に向けた志に深く共感し、成瀬とともに日本初の女子大学設立に向けて動き出します。
1901年 日本女子大学校(現 日本女子大学)設立
そして浅子の尽力の甲斐もあり、1901年、ついに念願だった日本初の女子大学の設立を成し遂げます。
その後も女子教育に対する熱意は冷めることはなく、1914年から浅子逝去の前年(1918年)までの毎夏、女性対象の勉強合宿を開催していました。
日本女子大学の偏差値と学費についても調べてありますので、気になる方がいれば日本女子大学の偏差値と学費は?出身芸能人まとめ【あさが来た】でご覧ください。
1919年 広岡浅子・逝去
「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」という言葉を残し、教育界に大きな革命を起こした広岡浅子はこの世を去りました。
広岡浅子の画像
広岡浅子の画像1
広岡浅子の画像2
出典 gensun.org
広岡浅子の画像3
管理人の所感
日本初の女子大学設立という快挙を成し遂げた広岡浅子。
決してひとりの力で成し遂げたわけではありませんが、それでは教育界に革命を巻き起こしたという点を見れば、偉業といっても過言ではないでしょう。
管理人も教育業界には興味がありますし、何なら「教育界に革命を巻き起こす」という願望だって持っていたりします。
ですから、なおさら広岡浅子の活躍には、胸が熱くなるものを感じます!
「あさが来た」では、そんな広岡浅子をモデルにした今井あさの活躍がバッチリと収録されていることでしょう。
今から「あさが来た」の放送が待ち遠しいですね!
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